立教炉の共同利用が始まって10年ほど経た頃、外務省から連絡があり、マレーシア政府が「研究用原子炉を使って行う研究の指導」のため、あなたに来てもらいたいと名前を指定して派遣の要請をしてきたので、外務省に来てもらいたい」との連絡がありました。1週間ほど前に、東京大学原子力工学科の教授からにマレーシアの原子力研究所の所長という方を紹介されたが、多分その方の要請だろうと思いながら指定された場所に行きましたら、次のような説明がありました。
マレーシアから研究用原子炉を使って研究を進めたいので、その指導のための専門家として私を指名して来た。しかしJICA(日本国際協力機構は発展途上国に必要な水道の設置などで開発途上国の援助はするが、原子力技術のような開発途上国の援助とは今は考えていない援助は断りたい。しかし、この国際援助を規定しているコロンボ条約の趣旨を考えると、援助国の政府からの要請を断ることは避けたい。そこで、あなたがどのような支援をするか、の外務相の担当者に説明をしてもらいたいとのことでした。そこで私は直ぐに教えられた方々に挨拶と説明をして回りました。そしてJICAによる、日本のアジアに対する原子炉技術支援が決まり、私はマレーシアに行くことになりました。その時、私には4人子供がおり、高校生の娘もいて、妻は家を空けることができなかったので、1983年の秋から1年間の短期派遣にしてもらいました
マレーシアに行きましたら、マハティール首相が2年前の1981年に提言した(”日本や韓国の勤勉さに見習え”といういわゆる(ルックイースト、Look East、)政策が浸透していて、日本人の行動が注目されていました。そのためもあってか、若い研究員は私の言うことを熱心に聞いてくれるので、大変気持ちよく指導をすることができました。また、マレーシアの原子炉は立教炉と同じTRIGA炉でしたので、私は立教炉利用の経験を生かして、日本にいるのと同じようにリラックスして原子炉理論を講義したり、立教炉の共同利用のテーマの中で最も数が多い「放射化分析」の実験を実際にやったりしていました。
1年は瞬く間に過ぎ、1984年9月に日本に帰りました。帰る時、次は何時いつ来てもらえるか聞かれましたので、夏休み中であれば、来ることができると伝えて、日本に帰ってきました。日本に帰るとすぐ、JICAから、今度はタイ国からマレーシアと同じ要請があるので可能な時にタイに行ってくれないかと言われ。次の年の夏休みはマレーシアではなく、タイ国に行くことにしました。タイ国から帰ってからは、IAEAの開発途上国援助計画による講師を頼まれ、再び次の年の夏休みにタイ国に行きました。このようにJICAとIAEAの2つのプログラムで、この年以降は、私の夏休みは、いつもアジアのどこかの国で過ごすことになりました。
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