太陽光発電所
(2000年設置)

--葉山でエネルギーについて考える
 信州飯田で生まれ、東京、東海村、三浦半島、
そして、マレーシア、インドネシア、タイ国、などアジアで半世紀程、主として核 エネルギー(原子力)関連の仕事をしてきました。今逗子・葉山で気持ち良く付き合える多くの友人に恵まれ、この地が自ずから終(つい)の地域にとなると思っています。ここで 家族、友人に支えられて、エネルギー保存則を中心に、自然とエネルギーについて、私が学んだり経験したことを書いていきたいと考えています。自分の楽しみで書いていますが、立ち寄って楽しんで戴ければ嬉しいことです。
 自宅から見る 二子山(逗子市境界 )

プロフィール 自然エネルギー 核エネルギー
エネルギー保存則
 1.天体の運動
 2.事実を重んずる
3.無生物界の力
  4.神の至高意志
5.エネルギー法則
6.放射線は何?
7.質量はエネルギ
8.宇宙の誕生
9.宇宙の成長
10.輪廻転生
国指定(平成14(2002)年)”長柄・桜山古墳”付近からの眺望

エネルギー保存則

はじめに

 今の私の一番の関心事は 宇宙・自然・エネルギー(註1)です。中でも最も関心を持っているのは”エネルギー”です。 現在、社会問題として議論されている”自然環境問題”や”エネルギー資源の危機問題”、気候温暖化問題にも、当然関心がありますが、それより宇宙誕生時超高温であったエネルギーが,以後200億年間冷却され、理論で予測されていた低温度の熱放射熱(マイクロ波)となって宇宙に残っていることが測定されたことにより、自然科学の法則として確立した宇宙創生論(通称ビッグ・バン理論)によると、誕生した超高温のエネルギーは温度が下がるにつれて、重力や電磁気力に変り、また、各種の素粒子になり、素粒子の中の陽子、中性子、電子が集まって原子となり、更に物質になって、現在、私達が見ているいる森羅万象が作られたと説明されているからです。簡単に言えば、私たちが生きている宇宙は創生と成長経過から考えると、それ自身を目で見ることは出来ないけれど、物を動かす力を持ついろいろな種類のエネルギーも、目に見ることができる生物(動物、植物、菌類(茸類)”も、”岩石などの無生物”も総てが、宇宙創成時に誕生したエネルギーが変化・変換した姿であると言うことです。エネルギーはこのような宇宙の根源的なものであり、 実に神秘的でもあり、 摩訶不思議なものなので、どうしても目を離すことが出来ないのです。
 古代哲学が生まれたギリシャでは万物の根源・アルケーが議論されていたと言うことですが、エネルギーは『アルケー』の特徴をもっていると私には思われます。世界最初の哲学者との伝説を持っているのは、ギリシャの7賢人の1人、ターレス(紀元前624頃~)とされています。ギリシャとオリエントをつなぐイオニア地方の都市に住んでいた賢人ということですが、ターレスが最初の哲学者と言われる理由は「世界の様々な現象を生み出す元(もと)のもの、すなわち「アルケー」(註2)は ”水”である」と言ったからであるとされています。”万物の根源” を考えたことは、哲学者と呼ばれるのに相応しいと思います。しかし、その後現在まで、「水がアルケーである」と言う事実は検証されたことはありませんでした。やがて、実験や観測により得られた”事実に拠どころを求めつつ”、自然の奥にある法則を追求し続けて来た自然科学の手法(註3)により、20世紀に自然科学法則として確立した宇宙創生論により、エネルギーはアルケーであることが分かったと私は考えています。
  一方、ターレスと同じ頃の西暦紀元前4~5世紀頃にインドで生まれたお釈迦様はアルケーがどのような物かと言うことでなく、アルケーの性質を5感により観察し、この宇宙の森羅万象は原因があれば、変化し、変わらずに存在するものは何もない。したがって、ずっと生き続けようとするなどに”執着”することは自然の法則に逆らうことであり、苦しみの原因となる。従って、そのような”執着”があると,幸せな生活を送ることはできない」と、”執着することなく苦の無い人生を生きる ”智慧” とその智慧を取得する方法を多くの人に説き、約2500年ほど経た現在も、世界中に、影響を与え続けています。
  話を自然科学に戻しますが、エネルギーには、変化はするが、変化の前と後のエネルギー総量(仕事量)は変わらないと言う『「エネルギー保存則』があります。この保存則は19世紀中程に研究者の間で認められるようになったものですが、アルケーであるエネルギーの大切な性質であると思いますので、私が知り得た、その保存則発見の歴史を遊行期(註4)の時間を使い、楽しみながら勉強して紹介していきたいと思っています。
 このように、すべて、私の独り善がりで選んだテーマを私自身の楽しみのために書く訳ですが、若し、気にいったら立ち寄って楽しんで頂ければ嬉しく思います。。間違いの指摘、感想、その他はここへお願い致します。


註1)エネルギーの語源はギリシア語の"νέργειαで「仕事」を意味しています。エネルギーは”仕事をする能力”のことです。エネルギー量は仕事量の単位を用いてあらします。しかし、19世紀にエネルギーに対して自然法則に適合した定義が確立するまでは、”力”を”エネルギー”の意味にも使っていました。 

註2)アルケー(ギリシャ語、arche)は 「初め」の意味。 はじめにあるのは、その後に生まれるものの原因でもあるので、原因、根拠、原理、などの意味にも使われています。また、現実的な使い方もされており、大工の棟梁は建築現場の”アルケー”と呼ばれていたようです。また、「アルケー」は、建築技術(アーキテクチャー)に残されています。   さらに、アルケーがない状態をアナーキー(無秩序、無政府状態)、アルケーが一つだと、モノ+アルケー=モナーキー(君主制)のような使われ方もされています。

註3)”事実に拠どころを求めつつ”、自然の奥にある法則を追求し続けて来た自然科学の手法” の文句は
  朝永振一郎著  物理学とはなんだろうか  岩波新書 上  17ページ 1979年から引用しました。

註4)昔、インドで用いられていたと云う、ライフスタイルの名前。人生を四つの時期に分けて、
   「学生期」(がくしょうき)
   「家住期」(かじゅうき) 
   「林住期」(りんじゅうき)
  「遊行期」(ゆぎょうき) 
  と名付けていたようです。
 


天体の運動

1.1 古代人は気候季節の移り代わりが天体の位置や運動と密接に関係していることを知り、古代文明が栄えた、中国、エジプトところでは、陽の動きに従っら生活しています。

1.2 メソポタミヤでの天体観測
古代メソポタミヤの人達は、日常生活においては、彼等は太陽神シャマシュより、月神シンと親しかったようです。日中、日陰のない農地で太陽神シャマシュからの猛暑を浴びながら働くことは大変だったと思われます。しかし、日が暮れると、月神シンが猛暑を冷ますように冷たい光で優しく現れるのですから、彼らが夜の平和を守る月神シンを待ち望むのは自然なことだったと思われます。そして月神に、時間の経過を教えてもらいました。しかし、月神シンは何時も同じ姿で現れるとは限りません。ある時は丸く、ある時は鎌のように細く、ある時は全然姿を現さないこともあります。そのような時、月神に祈りながら、月が姿を現すのを一心に待ちわびていました。

1.2 月の満ち欠けと聖数「7」

                          ギリシャ、ローマ、エジプト、メソポタミアなどの位置関係

map

東の緑色の平野部分がチグリス・ユーフラテス川が流れるメソポタミヤです。
西方に、エルサレム、、ローマ、アテネなどが見られます

月

 そして3日目、薄昏に三日月が細い姿を見せてくれる時から1ヶ月が始まります。当時、月神シンが姿を消した後、最初の月の出を山頂で待ち受けて、三日月の出現をラッパで知らせるのが、祭司たちの重要な役割だったと言われています。
  三日月から夜毎に大きくなり、右側が光り左側が欠けた姿から、日に日に光る部分が大きくなって、7日目には半月形となり、更に7日経つと、満月となる。更に7日後に半月形になり、また7日経つと、姿を消します。シュメール人やアッカド人は、月の姿が変わることを月神シンが姿を変えて夜空を照らしてくれるためと考え、月神シンの姿が代わることで時間の経つことを知り、そして、その変化に「7」という数字が潜んでいることを知りました。

  シュメール人とアッカド人は、このように月の姿が変わることと時間の過ぎ行く関係をメソポタミアの地で、共に知ったのですが、現実の生活では、農耕民族にとって農地と水の確保が彼らの命につながる重要なことであり、支配者・権力者たちは、新たな貯水池や農地をめぐる攻防戦を繰り返し、また戦って捕虜を奴隷にして労働力を強化したりすることが現実」の生活でした。紀元前2400年頃に、アッカド人は軍隊を増強して、ついにシュメール人を征服して強大なアッカド国家を建設しました。この時、アッカド人が使っていた重さの単位“シュケール”がシュメール人が使っていた単位の60倍であったことから、60進法が考えられるきっかけになったと言われています、このことの詳細は、挿話60進法を見てください。

  古くから、シュメール人とアッカド人の争いをはじめ、メソポタミア地方では民族の交代が頻繁に行われていましたが、紀元前1700年頃には、アムル人がバビロンを都にして、古バビロニア(バビロン第1王朝)を建設しました。この王朝は紀元前18世紀のハンムラビ王の時が全盛期でハムラビ法典など編集しましたがその後はカッシート人の支配やアッシリア人の支配の下にいました。
 そして、紀元前625年頃には、新興勢力のカルデア人がシュメール人やアッカド人の宗教や風俗を吸収消化すると共に、500年にも及ぶアッシリアとの戦争にも勝って、新バビロニア国家を建てました。このカルデア人が、星の観察記録を多く残してくれました。この国の名は、日本語や中国語では「新バビロニア」が多く使われていますが、欧米圏では「カルデラ」が一般的な呼び名ようです。

1.3  カルデアの天体観測 -占星術と聖数「7」

カルデア人は羊を追って草原を遊牧する日常生活を送っていました。 メソポタミヤ地方の緯度は九州と同じ位であり熱帯地域ではありませんが、樹木が少なく日影が全くない草原で、直接太陽に照らされる昼の熱さは楽なものではありませんでした。灼熱と言ってよいような暑さを届ける太陽から解放される夜のひと時、彼等は星を仰ぎ時間や季節を知り、人間の力を超えた宇宙・自然との絆を感ずる時間を持っていたことと思われます。

 この時間の天体の観測により、多くの星が季節ごとに隊列を整えて動いていること、日にちが経つと、消えて見えなくなる星といつまでも見える星があることなどを知り、カルデア人は、このことから、天空全体は星と主に東から西へ動いていると考えました。また、季節が変わるにつれて、星の位置も変わるので、星の位置から季節を読み取ることができることも知りました。更に、重要な発見として、その中に、他の星に比べて輝きが強い5つの星が周りの星の隊列と無関係に動いていることを見つけ、その動きから“惑う星”、惑星と名づけました。5つの星は、水星、金星、火星、木星、土星です。

そして、カルデア人は5つの惑星には地球を支配する神が住むと考え、さらに、5つの惑星は神の住む処であるばかりでなく、惑星自身が神であると考えるに至りました。このように惑星自身が人間を過去から未来に至るまで支配しているとの考えの基に生まれたのが占星術です。惑星が地球を司っているとの考えは天体の存在や運動は、人間の力を遙かに超えた力によるものであるということは、誰でも認めることであり、太陽には正義と律法を司る太陽神サマシュが、月には時を司る月神シンが住んでいると考えられていたことは、大変自然なことであったと思われます。やがて、この考えが、太陽と月の2つの“惑星”を加えて7つの惑星が、地球を司っていると考えるようになりました。 バビロニア人は、地球は宇宙の中心に静止していると考えて天体の動きを、理解していました。そして、7つの惑星は地球を回りながら地球上のあらゆる空間と時間を支配していると考え、支配は当番の惑星が、毎日交替して行うと考えました。7つの地球を司る惑星の担当が一巡するのには7日掛かります。この”7”と言う数字は月神シンの姿の変化の中にもありまし。このことから”7”は、神の数や働く日数などを決めている”聖”なる数であるということがカルデア人により考えられ、さらに、聖数“7”がキリスト教において神の決めた数とされた結果、現在に至るまで、全人類の生活に一週間という生活のリズムを提供することになりました。
 占星術は星の動きを、正確な観測結果により決めるより、神話などによる依存している部分がが大きいので、星の観測には直接貢献しませんでしたが、 しかし、ヨーロッパ中世には、ティコ・ブラーエやケプラーなどにより、精度の高いの天体観測がおこなわれていたのを、占星術は間接的にその観測を助け、以後、天文学を通しては自然科学(物理学)の進歩に大きな貢献をすることになります。
16世紀頃になるヨーロッパの政治情勢は大変不安定になり、その中で重大な政策決定を下さねばならない時、彼らはと(
 

挿話1
 :  60進法の起源 - 今から4千年以上前のメソポタミヤでの出来事

60秒を1分、60分を1時間などとする時間の単位や一周の角度を360度とする角度の単位は、今でも60進法が使われていますが、これは予想もできない偶然から使われるようになったと言われています。 
  チグリス・ユーフラテス川の流域に住んでいたシュメール人が用いていた重さの単位『ミナ』は、約560グラム、そして、シュメール人が用いていた《シュケール》は約9グラムでした。
 アッカードがシュメールを征服し、強大なアッカード国を建設した後、両国の人たちは、1つの物の重さが2通りに測られ、1《シュメール》が60集まると1《ミナ》に変わることを知った、という経験が基礎にあると言うことです。


2.事実を重んずる

1、 古代ギリシャ・ローマ文化の誕生

メソポタミア地方では、シュメール人とアッカド人の争いをはじめ、国王など少数の権力者の欲望による、民族などの争いが絶えなかったので、その中では、限られた人を除いては、天体の運動の法則などを考える余裕がないまま”時が流れてしまいました。しかし、幸いに紀元前8世紀ごろから、地中海に面するギリシャ地方において、王政の強制ではなく、住民が、所属する共同体の意思決定に参加する「直接民主政」の都市国家(ポリス)が成立し、その環境の中で、人々が自由に合理的な考えを主張し合い、その中で、芸術、学問など ヨーロッパ文化の基礎が築かれることになりました。そのの中で、メソポタミヤでの天体観測のデータが生かされて自然科学(、天文学、物理学)が創られて行きました。


2、無生物界の力に関する考察 

  最初にエネルギー保存則に関係する論文を書いたのは、医師のロバート・マイヤでした。 マイヤーは1814年1月25日に、ドイツのハイルブロンで、薬屋の三男として生まれました。チユービンゲン大学、およびミュンヘン、ウィーン、パリの病院で医学の勉強を終え、1840年医師の試験に合格してから、父親の忠告に逆らって世界を探検するために航海に出る決心をし、1840年2月に、ロッテルダムから,オランダ領東インド諸島に向かうオランダのオランダ東インド会社の商船『ジャワ号」に医師として乗り込んだ。マイヤーに「エネルギー保存則」のインスピレーションを与えたのはこの旅行の目的地である、赤道下の熱帯の地、東インド(インドネシア)・スラバヤの近くの海上であったようです。
  彼は、帰国後、故郷に、インドネシアでのインスピレーションを得た後の考察を、現在の「力(エネルギー)の保存則」として論文に纏めました。 1841年6月に、彼はその論文をドイツの物理学雑誌「物理学化学」に提出しました。しかし、その論文は形而上学的な言葉で書かれており、物理学知識が不完全で初等的な誤りもあったので、編集者のポッゲンドルフはこの論文の年報への掲載を拒否し、原稿の返却もしなかったようです。マイヤーはこの扱いを怒り、同時に失望したが、間もなく論文に重要な誤りのあることを認めて、気を取り直し、訂正版を書くことにしました。 大幅に訂正改善して最初の論文提出から9ヶ月後、題を「無生物界の力に関する考察」として、今度は『化学薬学年報』に提出しました。この論文は直ちに受理され、1942年5月31日に刊行された。この日は彼の結婚式であったので、マイヤーを大いに喜ばせた。
 最初エネルギー保存則のインスピレーションを受けた頃の心境を、後日、友人であるベルリン大学の精神科教授ヴィルヘルム・グリージンガーに手紙(1844年6月16日付)を書いています。ダンネマン著安田徳太郎訳・編の「大自然科学史」に紹介されているその手紙を、少し省略や加筆をして紹介する。


 「私は机の上でこの理論を生み出したのではありません。私は、ジャワに滞在している時、瀉血治療をしました。このとき、間違えて動脈を刺したのではないかと思ったほど、血液が非常に赤いことに気が付きました。血液が動脈から静脈に流れる時、色が変わるのは、体内での燃焼・酸化のせいではないかと考えました。熱帯では外気温が高いので体温を一定に保つのに酸化・燃焼が少なくてよい、ということが静脈の色を赤くしているのではないか気づいたのです。もし人が生理学上のこの問題を形而上学的な面から ― 私は、これは気もちが悪くなるほどきらいです― 考えたくないなら、物理学の知識が必要です。だから、私は物理学にかじりついてこの問題に愛着をもって打ちこみました。そのため、私を笑う人が多いかもしれませんが、ふるさとから遠く離れた地方にいることに、ほとんど注意をはらわなかったほどでしたし、また、中断されないで研究できる、船内にいるほうが好きでした。私は船のなかで、ものにつかれたかのように、何時間もすごしました。このようなことをそれ以前も、それ以後も経験したことがありません。スラバヤの路上で、私の頭を電光のようにかすめた考えを、私は懸命に追いかけ、ついに新しい考えに行きつきました。時は流れ去りましたが、あのとき、私の脳裏にあらわれたものを静かに吟味してみたところ、それが真理であることが分かりました。この真理は、主観的に感ずることができるだけではなく、客観的に証明することができます。あとに残っている問題は、私のように物理学に通じていないものによって、この証明を遂行できるかどうかということであります。・・」

 改訂されたマイヤーの論文の題名は「無生物界の力に関する考察」であり、「‘力’は何か、そして、どのように振舞うかという問題に対して答えることである。」と書き出されていて、力を物質と比較して論じていた。
物質においては、化学変化の前と後を比較すると、元素の組み合わせは変わるが、元素の種類も全質量は変わらないこと、すなわち質量は保存されていることがラボアジエなどにより実験的に見出されていた。
 一方、力は、見たり触ったり出来なくまた、物質と異なっているので、未知のもの、探求できないものであり仮説的なもの、とされていた。マイヤーはこの論文で、未知のものと思われていた力を研究の対象にしたのである。
 「力は原因」であり、従ってこれには原因は結果に等しいという原則が十分に適用される」、として議論を進めている。そして、原因と結果との連鎖においては、原因または結果の一部分が零になることは決してない。なぜなら,一部分でも零になれば、連鎖は途切れてしまうから。このことからあらゆる原因は零になることはなく、保存されることが分かるとして物質と同じように「不滅性」を持っているとしている。
 また、力は、熱になったり、また、さまざまな形態を取れたりするという「可変性」をもつことを主張しており、力が熱に変換される場合の変換率をゲー・リュサックの実験結果を用いて、計算している。
 私も、マイヤーの論文は思弁的な論文と思う。しかし、力をエネルギーと置き換えると、エネルギーは変換される(可変性をもつ)が、失われることはないない(不滅性を持つ)、と「エネルギーの性質」を言い当てていたことは認めざるを得ないと思う。
 
マイヤーはその後、1942年に発表した論文を、エネルギー保存則について彼のプライオリティー(優先権)を確認するものであると主張した。しかし、この論文は、上で紹介したように、注意深く行われた実験に基づいて書かれたものではなかったので、最初は無視されたり、嘲笑されたりした。また、注意深く計画された実験を着実に進めていたジュールの間で、エネルギー保存則発見の先取権争いが起こった。
この争いは、マイヤーを深い絶望に陥れた。おまけに個人的不幸に見舞われた。3年の間に1人の息子と2人の娘が3歳に達する前に病気になって亡くなりったのである。1850年5月28日の朝、地上10メートルのところから飛び降り自殺を図り、未遂に終わったのであった。
また、その後もこの絶望は尾を引き、38歳の時、精神に異常をきたし、「誇大妄想狂」の病名で精神病院に入れられてしった。このように、彼は、若くしてエネルギー保存則のインスピレーションを持ったことで、波乱の30代をおくった医師である。しかし、やがて医師にも戻り、生涯の終りになって初めて主張が認められ、ロイヤル・ソサイエティも彼にメダルを贈って功績をたたえた。1878年に亡くなった。享年64歳であった。

  
 私も、インドネシアに近いマレーシアで、ほぼ1年間生活したことがある。滞在中、蚊に刺されたり、小さな傷をして、自分の血や、研究指導していた若い研究者の出血などを見たことがあった。しかし、特別赤いとは思わなかった。後日、インドネシア・スラバヤへ行ってみて、マイヤーの経験は北国育ちのマイヤーが熱帯の海上の明るさで、普通の血の色を鮮血と勘違いしたものではないかと思うようになった。私は、マイヤーの論文は「勘違いから出た真(まこと)」と思っている。(05/04/22)

目次に戻る。

 3人の中で最初にエネルギー保存則に関係する論文を書いたのは、医師のロバート・マイヤでした。 マイヤーは1814年1月25日に、ドイツのハイルブロンで、薬屋の三男として生まれた。チユービンゲン大学、およびミュンヘン、ウィーン、パリの病院で医学の勉強を終え、1840年医師の試験に合格してから、父親の忠告に逆らって世界を探検するために航海に出る決心をし、1840年2月に、ロッテルダムから,オランダ領東インド諸島に向かうオランダのオランダ東インド会社の商船『ジャワ号」に医師として乗り込んだ。マイヤーに「エネルギー保存則」のインスピレーションを与えたのはこの旅行の目的地である、赤道下の熱帯の地、東インド(インドネシア)・スラバヤの近くの海上であった。彼は、帰国後、故郷に、インドネシアでのインスピレーションを得た後の考察を、現在の「力(エネルギー)の保存則」として論文に纏めた。
 1841年6月に、彼はその論文をドイツの物理学雑誌「物理学化学年報」に提出した。しかし、その論文は形而上学的な言葉で書かれており、物理学知識が不完全で初等的な誤りもあったので、編集者のポッゲンドルフはこの論文の年報への掲載を拒否し、原稿の返却もしなかったようである。マイヤーはこの扱いを怒り、同時に失望したが、間もなく論文に重要な誤りのあることを認めて、気を取り直し、訂正版を書くことにした。
 大幅に訂正改善して最初の論文提出から9ヶ月後、題を「無生物界の力に関する考察」として、今度は『化学薬学年報』に提出した。この論文は直ちに受理され、1942年5月31日に刊行された。この日は彼の結婚式であったので、マイヤーを大いに喜ばせた。
 最初エネルギー保存則のインスピレーションを受けた頃の心境を、後日、友人であるベルリン大学の精神科教授ヴィルヘルム・グリージンガーに手紙(1844年6月16日付)を書いている。ダンネマン著安田徳太郎訳・編の「大自然科学史」に紹介されているその手紙を、少し省略や加筆をして紹介する。


 「私は机の上でこの理論を生み出したのではありません。私は、ジャワに滞在している時、瀉血治療をしました。このとき、間違えて動脈を刺したのではないかと思ったほど、血液が非常に赤いことに気が付きました。血液が動脈から静脈に流れる時、色が変わるのは、体内での燃焼・酸化のせいではないかと考えました。熱帯では外気温が高いので体温を一定に保つのに酸化・燃焼が少なくてよい、ということが静脈の色を赤くしているのではないか気づいたのです。もし人が生理学上のこの問題を形而上学的な面から ― 私は、これは気もちが悪くなるほどきらいです― 考えたくないなら、物理学の知識が必要です。だから、私は物理学にかじりついてこの問題に愛着をもって打ちこみました。そのため、私を笑う人が多いかもしれませんが、ふるさとから遠く離れた地方にいることに、ほとんど注意をはらわなかったほどでしたし、また、中断されないで研究できる、船内にいるほうが好きでした。私は船のなかで、ものにつかれたかのように、何時間もすごしました。このようなことをそれ以前も、それ以後も経験したことがありません。スラバヤの路上で、私の頭を電光のようにかすめた考えを、私は懸命に追いかけ、ついに新しい考えに行きつきました。時は流れ去りましたが、あのとき、私の脳裏にあらわれたものを静かに吟味してみたところ、それが真理であることが分かりました。この真理は、主観的に感ずることができるだけではなく、客観的に証明することができます。あとに残っている問題は、私のように物理学に通じていないものによって、この証明を遂行できるかどうかということであります。・・」

 改訂されたマイヤーの論文の題名は「無生物界の力に関する考察」であり、「‘力’は何か、そして、どのように振舞うかという問題に対して答えることである。」と書き出されていて、力を物質と比較して論じていた。
物質においては、化学変化の前と後を比較すると、元素の組み合わせは変わるが、元素の種類も全質量は変わらないこと、すなわち質量は保存されていることがラボアジエなどにより実験的に見出されていた。
 一方、力は、見たり触ったり出来なくまた、物質と異なっているので、未知のもの、探求できないものであり仮説的なもの、とされていた。マイヤーはこの論文で、未知のものと思われていた力を研究の対象にしたのである。
 「力は原因」であり、従ってこれには原因は結果に等しいという原則が十分に適用される」、として議論を進めている。そして、原因と結果との連鎖においては、原因または結果の一部分が零になることは決してない。なぜなら,一部分でも零になれば、連鎖は途切れてしまうから。このことからあらゆる原因は零になることはなく、保存されることが分かるとして物質と同じように「不滅性」を持っているとしている。
 また、力は、熱になったり、また、さまざまな形態を取れたりするという「可変性」をもつことを主張しており、力が熱に変換される場合の変換率をゲー・リュサックの実験結果を用いて、計算している。
 私も、マイヤーの論文は思弁的な論文と思う。しかし、力をエネルギーと置き換えると、エネルギーは変換される(可変性をもつ)が、失われることはないない(不滅性を持つ)、と「エネルギーの性質」を言い当てていたことは認めざるを得ないと思う。
 
マイヤーはその後、1942年に発表した論文を、エネルギー保存則について彼のプライオリティー(優先権)を確認するものであると主張した。しかし、この論文は、上で紹介したように、注意深く行われた実験に基づいて書かれたものではなかったので、最初は無視されたり、嘲笑されたりした。また、注意深く計画された実験を着実に進めていたジュールの間で、エネルギー保存則発見の先取権争いが起こった。
この争いは、マイヤーを深い絶望に陥れた。おまけに個人的不幸に見舞われた。3年の間に1人の息子と2人の娘が3歳に達する前に病気になって亡くなりったのである。1850年5月28日の朝、地上10メートルのところから飛び降り自殺を図り、未遂に終わったのであった。
また、その後もこの絶望は尾を引き、38歳の時、精神に異常をきたし、「誇大妄想狂」の病名で精神病院に入れられてしった。このように、彼は、若くしてエネルギー保存則のインスピレーションを持ったことで、波乱の30代をおくった医師である。しかし、やがて医師にも戻り、生涯の終りになって初めて主張が認められ、ロイヤル・ソサイエティも彼にメダルを贈って功績をたたえた。1878年に亡くなった。享年64歳であった。

  
 私も、インドネシアに近いマレーシアで、ほぼ1年間生活したことがある。滞在中、蚊に刺されたり、小さな傷をして、自分の血や、研究指導していた若い研究者の出血などを見たことがあった。しかし、特別赤いとは思わなかった。後日、インドネシア・スラバヤへ行ってみて、マイヤーの経験は北国育ちのマイヤーが熱帯の海上の明るさで、普通の血の色を鮮血と勘違いしたものではないかと思うようになった。私は、マイヤーの論文は「勘違いから出た真(まこと)」と思っている。(05/04/22)



4、神の至高の意志                ジェームス・ プレスコット・ ジュール  

  父親は醸造業を営んでたが、ジュールは生来ひ弱であったので、学校には行かず、家で教育を受けた。15歳のとき、兄弟で、19世紀の初期に原子論を発表して物質を構成する基本粒子について大きな貢献をしたドルトンから数学を教えてもらい、また、化学、物理研究の手ほどきを受けた。
 同時代に、思弁的と言われたマイヤーとは異なり、注意深く計画された綿密な実験によって、電気と熱と仕事の相互変換についての実験結果を示して、エネルギーの保存則を科学の研究者たちに納得させたのは、マイヤーより、4年後れて1818年にイギリスのマンチェスター近くのサルフォードに生まれたジェームス・ プレスコット・ ジュールであった。

父親は醸造業を営んでいたが、ジュールは生来ひ弱であったので、学校には行かず、家で教育を受けた。15歳のとき、兄弟で、19世紀の初期に原子論を発表して物質を構成する基本粒子について大きな貢献をしたドルトンから数学を教えてもらい、また、化学、物理研究の手ほどきを受けた。

父親がなくたった後は、彼自身も兄弟も醸造所の経営にあまり興味を持っていなかったので、工場を他の人に任せ、ジュールはその事業の配当金で自分の研究を続けた。ジュールは大学の教職にも、研究職にも就かず、全ての研究は、醸造所内に自費で設置された実験室で行おこった。人生の終りに頃に資金の損失をきたし、いくつかの科学協会から補助金を受け取ったが、政府年金を受け取ったのは最後の数年間のみであった。

ⅰ)ジュールの初期の研究テーマ ―‐ 電動モーターの改良と効率の測定

1800年にヴォルタにより電池が作られたことは、電気、磁気の研究にとっては画期的な出来事であった。それまで、物を擦る方法で摩擦電気しか発生させることが出来なかったが、電池により、連続して発生させて導線に流し、電流を得ることが出来たからである。19世紀は電磁気に関する研究は目を見張るものがあった。120年には、エルステッドによって、電流が流れている導線の周りには磁場が発生していることが見出され、1831年にはファラディによって、発電機や電動モーターの原理である電磁誘導の法則が発見された。その間にも、電流が熱を発生したり、吸収したりするペルチエ効果、物質の電気分解などに研究分野が広がっていった。

ジュールは、1837年、19歳から実験を始めたが、最初の仕事は、マンチェスターで電動モーターの研究をしていたウイリアム・スタージョンの研究に刺激されたものであった。ジュールの初期の論文は殆んど、スタージョンの電動モーターの部分的な改良に関する論文であった。

この時、ジュールにとって、調べたい重要な目標があった。それは、1835年に発表された、モーリッツ・フォン・ヤコービの論文に書かれていた「電動モーターの不完全さを取り除くことが出来たとすれば、電動機は無限に加速され、莫大な動力を発生させることが出来る」と言う見通しを実証することであった。

しかし、1年ほどこの実験に打ち込んだ後、同じ力学的効果を出すための電動モーターを動かす電地において消耗される亜鉛や電解質溶液の価格と 蒸気機関の燃料である石炭の価格を比較した結果、亜鉛の価格が非常に高価であったため、蒸気機関のほうが電動モーターより経済的に遙かに有利であること知った。このようにジュールの最初の仕事は挫折した。しかし、この電動モータの改良研究は、それから10年後の1847年に発表され、エネルギー保存則の確立に大いに影響を与えた「流体の摩擦熱の仕事当量測定」までの仕事の始めであった。

ⅱ)自然現象の基本的な力は、機械力、熱、それに電気力

  ジュールは、1840年に、熱が電流により発生し、発生熱量は、電流の二乗に比例することを測定した。この関係は「ジュールの法則」と呼ばれ、電流により発生する熱は「ジュール熱」と呼ばれている。

  これより前、ファラデーは、物質の電気分解の研究を通して、化学反応は本質的に電気的なものであると考え、熱は物質中を流れる電流によっても発生するので、電気的な力と熱との関係を調べることが大切であることを指摘していた。このような学会の動きを知り,ジュールは、電気理論のなかに化学反応を含めていく計画を   ジュールの法則を王立協会で報告する時述べていた。

その計画にしたがって、ジュールは電気力、化学反応で発生する熱量、化学反応の反応生成物の量的関係などを1983年まで調べて、電気は化学反応を行い、熱を発生させ、熱を運び、配列しする基本的な力であることを見出した。自然現象を起こす基本的な力として、物を動かす力(引力、落下力)、熱、電気力が考えるようになったのである。次に、この3つの力の関係を求める実験装置を作り、実験を繰り返した結果、熱は電気力のみでなく、機械的な力によっても発生し、1ポンドの水の温度を1°F上げることができる熱量は、838ポンドの錘を1フィート持ち上げることができる機械力に転換されることを見出した。

ジュールは上に示したように「機械的力」を、蒸気機関職人が使っていた、錘の重さと上下させる高さ掛け合わせる、「仕事量」で表していた。現在のエネルギーの単位と同じ量である。ジュールが得た結果を現在使われている単位で表すと、1カロリーは約4.5ジュールに相当すると言うことになる。(最新測定値 4.186ジュール/カロリー)この値は、熱の仕事当量と呼ばれている。しかし、町の実験者、ジュールの実験は物理学者の注意を引かなかった。

ⅲ)神の至高の意志

 この時期は、蒸気機関が実用化されており、熱と機械的な力との量的な関係はサディ・カルノー、セガン、ヒルン、その他も出しており、熱と機械的力の量的関係を求める需要は大きかった.

ジュールは、電気力を考慮せず、仕事と熱の関係を測定するため、水の中で羽根車を錘で回しても水の温度上昇を測る装置を作り、熱の仕事当量を測った。しかし、この種の実験における水温の上昇は1°F以下であったので、正確な値を得るのは大変な測定技術が必要であった。ジュールは実験室があった当時の工業都市マンチェスターの技術力に助けられ、ドルトン先生に教えてもらった精密実験を目指して測定精度は0.005°Fに達したと言われている。水の代わりに蒸留水、水銀、鯨油を使って測定もした。

1847年に、その結果を、オックスフォードで行なわれた「ブリテン協会の会合で報告した。この時まで、殆ど物理学者に注目されなかったジュールの実験の重要性を、この報告で注目したのは、ウイリアム・トムソン青年、後のケルヴィン卿であった。ジュールは電気力、化学反応または機械的力を用いても、ほぼ同じ、熱の仕事当量値が得られたことでもあり、確信をもったのであろう、同じ年に、聖アン教会での読書会で講演したとき「エネルギー保存則」を神への信仰と重ね合わせて語った。2日間に亘った講演は、「マンチェスター新報」にも載った。

ジュールの「化学論文集」に載っている、ジュールの講演原稿の中から、神の意志に言及した部分を取り出して原文と訳を次に示す。

 

原文は次のようである。

(前略)Indeed the phenonena of nature, whether mechanical, chemical, or vital, consist almost entirely in a continual conversion of attraction through space, 1iving force, and heat into one another.  Thus it is that order is maintained in the the universe nothing is deranged, nothing ever lost, but the entire machinery complecated as it is, works smoothly and harmoniously . And though, as in the awful vision of Ezekiel, “wheel may be in the middle of wheel," and every thing may appear complicated and involved in the apparent confusion and intricacy of an almost endless variety of causes, effects, conversious, and arrangements, yet is the most perfect regularity preserved ― the whole being governed by the sovereign will of God. (後略)

日本語に訳してみました。

(前略)事実、自然現象は、機械的、科学的または生命現象を問わず全て、空間を通しての引 力、生命力、それに熱の絶え間ない変換により生じており、こようにして宇宙の秩序は保たれてる。―― 混乱しているものは何もなく、失われたものは何もなく、構造は複雑であるが、動きは円滑で調和が取れている。ちょうど、旧約聖書、エザキエル書に示されているように、
「環の中に環があり」、全ての物が複雑に見え、終りのない、原因、変換、結果の連鎖の中で、外見的には、複雑で込み入っているが、それでもなお、殆ど完全に秩序は保たれている。全ては神の至高の意志によって統治されているのである。(後略)

 

この年はジュールが実験を始めてから10年目であった。この間、最初は、電動モーターの改良から始めた実験であったが、途中から力を消滅できるのは神のみであることを確信しながら様々な実験を繰り返すようになったようである。この確信は個人的な物であるが、客観的法則である自然の法則を説明する論文に個人の確信を持ち出すこと客観性が失われる恐れがあるが、綿密な計画と慎重な実験を繰り返していたジュールの場合には問題とはならなかった。むしろ、エネルギー保存則は自然の基本則であること伝えるのに役立った面があったように私は考えます。

ジュールはこの後も熱の仕事当量の測定を続けたが、  才で亡くなった。 

現在の、エネルギーの国際単位は、ジュール(J)と決められている。

1J=1Wの電力を1秒使ったとき消費する電力量

1Nの力で物体を1m動かす時消費するエネルギー

  1kWh(キロワット時)=360万J=3.6MJ

<同時代に、思弁的と言われたマイヤーとは異なり、注意深く計画された綿密な実験によって、電気と熱と仕事の相互変換についての実験結果を示して、エネルギーの保存即を科学の研究者たちに納得させたのは、マイヤーより、4年後れて1818年にイギリスのマンチェスター近くのサルフォードに生まれたジェームス・ プレスコッ5.エネルギー法則

6. 放射線は何?

7. 質量はエネルギ

8. 宇宙の誕生

9. 宇宙の成長 

10.輪廻転生 

文献1)  「情報といのち」 原沢 進      2000年、       露満堂
ここでは人間は情報処理機器と見なせること、そして、「こころ」はその機器のオペレーションシステムであると考えられています。

文献2) 「暦と占いの科学」 永田 久、   新潮新書、  1982   新潮社  

文献3) 「物理学とは何だろうか」 朝永振一郎 、岩波新書 1979 岩波書店



Copyright (C) HAYAMALIFE, All Rights reserved

  父親は醸造業を営んでたが、ジュールは生来ひ弱であったので、学校には行かず、家で教育を受けた。15歳のとき、兄弟で、19世紀の初期に原子論を発表して物質を構成する基本粒子について大きな貢献をしたドルトンから数学を教えてもらい、また、化学、物理研究の手ほどきを受けた。

4、神の至高の意志

 同時代に、思弁的と言われたマイヤーとは異なり、注意深く計画された綿密な実験によって、電気と熱と仕事の相互変換についての実験結果を示して、エネルギーの保存則を科学の研究者たちに納得させたのは、マイヤーより、4年後れて1818年にイギリスのマンチェスター近くのサルフォードに生まれたジェームス・ プレスコット・ ジュールであった。

父親は醸造業を営んでいたが、ジュールは生来ひ弱であったので、学校には行かず、家で教育を受けた。15歳のとき、兄弟で、19世紀の初期に原子論を発表して物質を構成する基本粒子について大きな貢献をしたドルトンから数学を教えてもらい、また、化学、物理研究の手ほどきを受けた。

父親がなくたった後は、彼自身も兄弟も醸造所の経営にあまり興味を持っていなかったので、工場を他の人に任せ、ジュールはその事業の配当金で自分の研究を続けた。ジュールは大学の教職にも、研究職にも就かず、全ての研究は、醸造所内に自費で設置された実験室で行おこった。人生の終りに頃に資金の損失をきたし、いくつかの科学協会から補助金を受け取ったが、政府年金を受け取ったのは最後の数年間のみであった。

ⅰ)ジュールの初期の研究テーマ ―‐ 電動モーターの改良と効率の測定

1800年にヴォルタにより電池が作られたことは、電気、磁気の研究にとっては画期的な出来事であった。それまで、物を擦る方法で摩擦電気しか発生させることが出来なかったが、電池により、連続して発生させて導線に流し、電流を得ることが出来たからである。19世紀は電磁気に関する研究は目を見張るものがあった。120年には、エルステッドによって、電流が流れている導線の周りには磁場が発生していることが見出され、1831年にはファラディによって、発電機や電動モーターの原理である電磁誘導の法則が発見された。その間にも、電流が熱を発生したり、吸収したりするペルチエ効果、物質の電気分解などに研究分野が広がっていった。

ジュールは、1837年、19歳から実験を始めたが、最初の仕事は、マンチェスターで電動モーターの研究をしていたウイリアム・スタージョンの研究に刺激されたものであった。ジュールの初期の論文は殆んど、スタージョンの電動モーターの部分的な改良に関する論文であった。

この時、ジュールにとって、調べたい重要な目標があった。それは、1835年に発表された、モーリッツ・フォン・ヤコービの論文に書かれていた「電動モーターの不完全さを取り除くことが出来たとすれば、電動機は無限に加速され、莫大な動力を発生させることが出来る」と言う見通しを実証することであった。

しかし、1年ほどこの実験に打ち込んだ後、同じ力学的効果を出すための電動モーターを動かす電地において消耗される亜鉛や電解質溶液の価格と 蒸気機関の燃料である石炭の価格を比較した結果、亜鉛の価格が非常に高価であったため、蒸気機関のほうが電動モーターより経済的に遙かに有利であること知った。このようにジュールの最初の仕事は挫折した。しかし、この電動モータの改良研究は、それから10年後の1847年に発表され、エネルギー保存則の確立に大いに影響を与えた「流体の摩擦熱の仕事当量測定」までの仕事の始めであった。

ⅱ)自然現象の基本的な力は、機械力、熱、それに電気力

  ジュールは、1840年に、熱が電流により発生し、発生熱量は、電流の二乗に比例することを測定した。この関係は「ジュールの法則」と呼ばれ、電流により発生する熱は「ジュール熱」と呼ばれている。

  これより前、ファラデーは、物質の電気分解の研究を通して、化学反応は本質的に電気的なものであると考え、熱は物質中を流れる電流によっても発生するので、電気的な力と熱との関係を調べることが大切であることを指摘していた。このような学会の動きを知り,ジュールは、電気理論のなかに化学反応を含めていく計画を   ジュールの法則を王立協会で報告する時述べていた。

その計画にしたがって、ジュールは電気力、化学反応で発生する熱量、化学反応の反応生成物の量的関係などを1983年まで調べて、電気は化学反応を行い、熱を発生させ、熱を運び、配列しする基本的な力であることを見出した。自然現象を起こす基本的な力として、物を動かす力(引力、落下力)、熱、電気力が考えるようになったのである。次に、この3つの力の関係を求める実験装置を作り、実験を繰り返した結果、熱は電気力のみでなく、機械的な力によっても発生し、1ポンドの水の温度を1°F上げることができる熱量は、838ポンドの錘を1フィート持ち上げることができる機械力に転換されることを見出した。

ジュールは上に示したように「機械的力」を、蒸気機関職人が使っていた、錘の重さと上下させる高さ掛け合わせる、「仕事量」で表していた。現在のエネルギーの単位と同じ量である。ジュールが得た結果を現在使われている単位で表すと、1カロリーは約4.5ジュールに相当すると言うことになる。(最新測定値 4.186ジュール/カロリー)この値は、熱の仕事当量と呼ばれている。しかし、町の実験者、ジュールの実験は物理学者の注意を引かなかった。

ⅲ)神の至高の意志

 この時期は、蒸気機関が実用化されており、熱と機械的な力との量的な関係はサディ・カルノー、セガン、ヒルン、その他も出しており、熱と機械的力の量的関係を求める需要は大きかった.

ジュールは、電気力を考慮せず、仕事と熱の関係を測定するため、水の中で羽根車を錘で回しても水の温度上昇を測る装置を作り、熱の仕事当量を測った。しかし、この種の実験における水温の上昇は1°F以下であったので、正確な値を得るのは大変な測定技術が必要であった。ジュールは実験室があった当時の工業都市マンチェスターの技術力に助けられ、ドルトン先生に教えてもらった精密実験を目指して測定精度は0.005°Fに達したと言われている。水の代わりに蒸留水、水銀、鯨油を使って測定もした。

1847年に、その結果を、オックスフォードで行なわれた「ブリテン協会の会合で報告した。この時まで、殆ど物理学者に注目されなかったジュールの実験の重要性を、この報告で注目したのは、ウイリアム・トムソン青年、後のケルヴィン卿であった。ジュールは電気力、化学反応または機械的力を用いても、ほぼ同じ、熱の仕事当量値が得られたことでもあり、確信をもったのであろう、同じ年に、聖アン教会での読書会で講演したとき「エネルギー保存則」を神への信仰と重ね合わせて語った。2日間に亘った講演は、「マンチェスター新報」にも載った。

ジュールの「化学論文集」に載っている、ジュールの講演原稿の中から、神の意志に言及した部分を取り出して原文と訳を次に示す。

 

原文は次のようである。

(前略)Indeed the phenonena of nature, whether mechanical, chemical, or vital, consist almost entirely in a continual conversion of attraction through space, 1iving force, and heat into one another.  Thus it is that order is maintained in the the universe nothing is deranged, nothing ever lost, but the entire machinery complecated as it is, works smoothly and harmoniously . And though, as in the awful vision of Ezekiel, “wheel may be in the middle of wheel," and every thing may appear complicated and involved in the apparent confusion and intricacy of an almost endless variety of causes, effects, conversious, and arrangements, yet is the most perfect regularity preserved ― the whole being governed by the sovereign will of God. (後略)

日本語訳をしてみました。

(前略)事実、自然現象は、機械的、科学的または生命現象を問わず全て、空間を通しての引力、生命力、それに熱の絶え間ない変換により生じており、こようにして宇宙の秩序は保たれている。

―― 混乱しているものは何もなく、失われたものは何もなく、構造は複雑であるが、動きは円滑で調和が取れている。ちょうど、旧約聖書、エザキエル書に示されているように、「環の中に環があり」、全ての物が複雑に見え、終りのない、原因、変換、結果の連鎖の中で、外見的には、複雑で込み入っているが、それでもなお、殆ど完全に秩序は保たれている。― 全ては神の至高の意志によって統治されているのである。(後略)

 

この年はジュールが実験を始めてから10年目であった。この間、最初は、電動モーターの改良から始めた実験であったが、途中から力を消滅できるのは神のみであることを確信しながら様々な実験を繰り返すようになったようである。この確信は個人的な物であるが、客観的法則である自然の法則を説明する論文に個人の確信を持ち出すこと客観性が失われる恐れがあるが、綿密な計画と慎重な実験を繰り返していたジュールの場合には問題とはならなかった。むしろ、エネルギー保存則は自然の基本則であること伝えるのに役立った面があったように私は考えます。

ジュールはこの後も熱の仕事当量の測定を続けたが、  才で亡くなった。

 

現在の、エネルギーの国際単位は、ジュール(J)と決められている。

1J=1Wの電力を1秒使ったとき消費する電力量

1Nの力で物体を1m動かす時消費するエネルギー

  1kWh(キロワット時)=360万J=3.6MJ

<同時代に、思弁的と言われたマイヤーとは異なり、注意深く計画された綿密な実験によって、電気と熱と仕事の相互変換についての実験結果を示して、エネルギーの保存即を科学の研究者たちに納得させたのは、マイヤーより、4年後れて1818年にイギリスのマンチェスター近くのサルフォードに生まれたジェームス・ プレスコット・ ジュールであった。 H1 id="#energy">5.エネルギー法則

6. 放射線は何?

7. 質量はエネルギ

8. 宇宙の誕生

9. 宇宙の成長 

10.輪廻転生 

文献1)  「情報といのち」 原沢 進      2000年、       露満堂
ここでは人間は情報処理機器と見なせること、そして、「こころ」はその機器のオペレーションシステムであると考えられています。

文献2) 「暦と占いの科学」 永田 久、   新潮新書、  1982   新潮社  

文献3) 「物理学とは何だろうか」 朝永振一郎 、岩波新書 1979 岩波書店



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